倭館移建付。
倭館之在京城者, 年久迹堙, 人或瞠焉。三浦倭館, 則獨見於海東記, 而是書世罕蓄之。輿地乘覽, 只著熊川館。通文志只著釜山館, 竝欠詳悉。至於自三館而變爲一館, 則史籍中絶不見, 玆敢竊附己見, 以詳其沿革, 當與朝京道里條參看。
倭館凡二所, 一在京都南部樂善坊, 名東平館, 倭使入京所頓舍。萬曆己酉以後, 不許上京, 遂廢。一在慶尙道東萊釜山鎭西南草梁浦, 始麗季倭寇充斥邊疆。我朝開國後, 海港要害, 皆置萬戶營及水軍處置使以禦之, 倭患稍熄。於是又置三浦倭館, 以處其使。三浦者, 東萊之釜山浦, 蔚珍鹽浦, 熊川之薺浦也。日本國諸大臣·對馬島主所送使船, 皆有定數。馬島使船二十五隻, 泊釜山, 二十五隻, 泊薺浦。其餘諸使, 隨便分泊三浦。世宗朝, 馬島倭六十戶, 願居三浦, 朝廷許之。中宗五年庚午, 三浦倭叛, 遣柳聃年·黃衡討平之, 焚其巢穴, 不復許居, 遂廢館謝絶。至壬申, 倭納款, 乞通朝聘, 命復置館於釜山豆浦, 距釜山鎭三里許, 常有留館倭守之。凡倭船往來, 不由釜山者, 以賊論斷, 又差遣訓導與當該鎭將管束之, 俾不敢連越。仁祖庚辰, 倭以館所湫隘, 請移之釜山城, 不許。顯廟癸丑, 又請移之熊川, 亦不許。前後三十餘年, 懇乞不已, 久之始許, 移占草梁浦, 距釜山鎭十里許。戊午, 新館成。
按通文館志云, 中宗壬申, 倭人納款後, 於釜山造館, 以處其送使, 蓋以爲倭館之始建, 在於壬申。然申文忠海東諸國記, 有三浦倭館圖。輿地勝覽新增亦云, 倭館在熊川薺浦南門外, 據此館之設於東海濱已久, 通文志之說, 甚誤矣。且國初三浦皆有館, 輿覽之只著薺浦, 不言鹽·釜兩館者, 亦疎漏欠詳也。又按輿覽云, 正德庚午, 平倭寇, 遂廢館後, 因倭納款, 復置館, 以語脈推之, 所謂復置者, 似指復設於熊川也。然懲毖錄云, 釜山常有留館倭云云, 而不言他館。輿覽新增, 成於中宗庚寅, 距宣祖壬辰, 六十餘年, 而二說不同。竊意海東記云, 馬島五十船, 半泊釜浦, 半泊薺浦, 餘使船, 隨便分泊三浦。此三館之所以設, 據其朝京道里記, 水路三, 陸路亦三分, 自三浦始故也。至攷事撮要, 則水·陸行, 皆自釜浦始。宣廟己酉講和時, 約條亦云, 不由釜山者, 以賊論斷。蓋國初, 則倭船分泊三浦, 故於所停泊, 皆設館待之。至中宗庚午, 三浦倭悉叛, 故盡廢館所, 以拒絶之。壬申納款後, 鹽·薺兩路, 搪塞不開, 只設釜山館, 往來不由此者, 痛繩以法也。前後沿革之迹, 歷歷可據如此。今輿覽泛稱復置館, 而載錄於薺館條, 遂起後人之疑, 可惜也。若曰輿覽之文, 保無訛謬, 則彼鹽·薺兩館之不載, 亦足稱贍密乎。或曰, 己酉條, 出於壬辰以後, 不足爲壬申只設釜館之證。然金文忠誠一奉使時, 與玄蘇書有曰, 除釜山一路, 皆以賊倭論斷, 此法已設於壬辰以前, 己酉, 申明之而已。且壬辰以前, 皆許上京, 而撮要所載朝京道路, 已著水陸皆由釜山之說。若鹽·薺兩浦, 皆有來館者, 則豈有皆由釜山之理也。釜館之設於壬申, 據此可見也。又按通文志, 不言三浦有館, 而直云朝廷設薺浦·釜山二處訓導, 使之接待, 其意若以爲置訓導, 以接三浦恒居倭者, 然此緣不察三館舊制故也。但大典, 只著薺·釜訓導, 不及鹽浦, 此又可異。竊意諸使中, 唯馬島歲遣之數最夥, 而止泊有定處, 故遣訓導接焉。鹽浦只有隨便分泊者而已, 故我亦只置生徒, 三浦倭學生徒之數, 見禮典可考也。又按本曹謄錄, 仁祖庚辰年間, 倭人之請移館於釜城也, 謂釜城, 是平時倭館所在。我國舌官洪喜男答曰, 釜城雖是舊基, 秀吉興兵來寇, 築城留鎭於此, 兩國之和遂絶, 此乃不祥之土。及家康乞和之後, 選卜吉地, 建館于玆, 疆場昇平, 將至四十年。今以將至四十年之說推之, 卽宣廟己酉後所築。然則己酉以前, 却在何地? 釜鎭載於輿覽, 而輿覽成於成宗辛丑, 其設已久矣。置倭館於重鎭之內, 保無是理。彼洪喜男, 去古不遠, 其言亦似有徵。然竊意, 譯舌輩, 不過以言語相授, 非有文字考據, 而倭又丁寧以釜城爲舊基, 故如是錯對也。倭人旣謂, 釜城爲平時倭館, 而其後又云平行長所築。然則彼乃以壬辰亂時, 行長據險屯砦之所, 爲舊館也。豆毛浦倭館之不改於國初故基, 據此可斷。大槪舊有三館, 今只一館, 豆毛浦爲舊館, 草梁爲新館也。通文志又云, 或謂絶影島內, 亦有館址, 未有所據。此亦恐出於氓俗之傳訛也。
其基, 自東至西三百七十二步四尺, 自南至北二百五十六步, 西有三館, 以處其送使及差倭。其曰東館大廳二十間, 東軒三十五間, 西軒二十五間, 東廊五十六間, 西廊五十六間。其曰中館大廳·東西軒·東西廊及間數竝同上。其曰西館大廳·東西軒·東西廊間數, 亦竝同上。東有館守倭所接家四十八間, 裁判倭所接家三十二間, 開市大廳四十間, 宴享大廳三十二間, 公須廳二十五間, 大門·挾門·水門各一間, 守門四間, 東·西·南伏兵幕各二間, 合家舍七百七十一間, 兩柱門共五十五, 外墻周回一千二百七十三步, 高六尺。而倭人自築, 代官·書僧以下各居間架, 不可悉記。
客舍二十四間, 在於館東三里地, 客舍者, 奉安殿牌, 諸倭使必於此肅拜。訓別廳三十餘間, 出使廳二十餘間, 皆在客舍之傍。
始草梁舊村, 與訓別廳同在一處, 倭托事故, 出入村閭, 遂有犯奸村女之變。康熙庚寅, 東萊府使權以鎭, 移村民於舊村之西, 築墻爲界, 首接於山尾, 抵於海, 設門以通出入, 置卒防守, 以斷倭人往來混雜之弊。客舍·訓別·出使廳, 皆在墻內。又爲狀以聞於朝曰, 譯官住在草梁村中, 倭人以約條中許往訓別家, 終日絡繹, 與我民相處。或丈夫不在, 而獨與婦女相對, 情意至密, 有無與共。譯官則稱以避接, 各占閭家, 私自隱屛, 催督譯官, 使還舊居, 移民他處, 築墻設門, 都將一人·部將一人及他有料米無緊守者二人, 使之晝夜守直於設門處。此必有朝家定式, 可以永久遵行。此後譯官, 或稱小通事之晝夜使喚, 欲移家近其側, 爲漸還舊村之計, 別加嚴禁, 以杜其漸。倭人之潛來新村者, 依約條捉付館守, 使之治罪, 所接家主人, 施以潛商之律。倭旣漸來, 而卽爲告官者, 免其罪, 潛接倭人, 而不卽現發者, 其統內四家, 亦皆重罪。倭人從新設門出, 則守門者, 必加重罪。守門都將以下, 每每搜檢於民家, 不卽現發, 則都將以下重罪。譯官有事故, 欲移處者, 還住府內, 不得私占其近處閭家。譯官之出入倭館, 倭人之出來訓別家者, 皆備二員相對, 不得獨對事定式。康熙戊寅, 右議政崔錫鼎啓曰, 臣見東萊月終文書, 則倭人之留館者, 其數或五六百, 或至八百之多。其中己未年出來者, 尙留在。其餘十餘年留在者亦多。他國人累年留在境上, 必有濫雜之弊。禮判申琓曰, 臣於戊午年, 爲暗行御使時, 見舊館則小, 新館則廣大, 倭人出來時, 私自挾帶者甚多, 何能一一詳知其數。上曰, 年久留在者, 使府使責諭還送, 可也。